今回は、賃金全額払いの原則といわゆる「調整的相殺」の関係について解説していきます。
実務的には、従業員への貸付金を毎月の賃金から控除する場合や、②長期休職から復職しないまま退職する場合において、会社が立て替えてきた社会保険料を退職金から控除したりするケースで問題が生じますので、心当たりのある事業者様は是非ご一読ください。

 

1.賃金全額払いの原則

労基法241項は「賃金は、通貨で、直接労働者に、その全額を支払わなければならない」と規定しています。これが賃金全額払いの原則です。
例外として、1.法令に別段の定めがある場合(社会保険料や源泉徴収税などが典型例)、又は2.労働組合若しくは労働者の過半数代表との労使協定がある場合は、賃金の一部を控除して支払うことができるとされています(同条1項但書)。

では、上記1や2の例外に該当しない場合は、いかなる場合でも賃金控除は認められないのでしょうか。
この点に関する通達では、月の中途の日に当月の賃金を前払いすることとなっている会社で、その支払日の後に5日間のストライキが行われた場合、その月は満稼動を前提にすでに賃金を支払ってしまっていることから、個々に改めて返還は求めず、物理的により接近している翌月の支払分で清算しようとする場合に「前月分の過払賃金を翌月分で清算する程度は賃金それ自体の計算に関するものであるから、法第24条の違反とは認められない」とされています(昭23.9.14基発1357号)。
また本規定によって控除が許されるのは、社宅、寮その他の福利厚生施設の費用、社内預金、組合費等といった事理明白なものに限られる(昭27.9.20基発675号)と解釈されています。

なお、労使協定は労基法違反を回避する効果(労基法の規制を解除する効果)が生じるのみであり、協定のみでは労働者に対して拘束力がないと解されています。したがって、別に就業規則、労働協約、労働契約書等の正当な根拠に基づくことが必要となります。

他方、3.会社が労働者との間で個別に合意した場合は、その範囲において賃金控除が許されると解されています(最判平2.11.26、東京地判平23.2.23参照)。こちらは当事者の合意に基づくものですので、労基法の規制解除という効果だけでなく、(賃金控除の法的根拠となる)私法上の効力も発生します。

2.調整的相殺

以上を前提に、使用者の一方的な意思表示による控除、いわゆる調整的相殺について検討しましょう。

判例は「適正な賃金の額を支払うための手段たる相殺は、同項(注:労基法241項)但書によって除外される場合にあたらなくても、その行使の時期、方法、金額等からみて労働者の経済生活の安定との関係上不当と認められないものであれば、同項の禁止するところではないと解するのが相当であるこの見地からすれば、許さるべき相殺は、過払のあった時期と賃金の清算調整の実を失わない程度に合理的に接着した時期においてされ、また、あらかじめ労働者にそのことが予告されるとか、その額が多額にわたらないとか、要は労働者の経済生活の安定をおびやかすおそれのない場合でなければならないものと解せられる」としています(福島県教組事件・最判昭44.12.18)。
他方、相殺額が少額に止まるものであったとしても3年余も経過した相殺は、「もはや清算調整のらち外にあるものとして許されない」と判示した裁判例がある点には注意が必要です(東日本旅客鉄道事件・東京地判平12.4.27)。
なお、前記昭和44年判決にいう「多額」との関係で、具体的にどの程度の控除まで認められるのか明確な基準は示されていませんが、強制執行手続において差押禁止とされている賃金総額の4分の1を超える控除は「多額」と判断される可能性が高いでしょう(民事執行法152条参照)。

3.実務的な対策

以上をふまえると、ケースバイケースであるものの、社会保険料及び源泉徴収税額の手取額に与える影響が小さくないことに鑑みれば、一般的には近接した1か月分(前月分)を超える調整的相殺は労基法24条違反となる可能性が高いと考えられるため注意が必要です。
このようなリスクを回避するためには、一方的に賃金控除を行うのではなく、従業員との間でしっかりと協議を行い合意書(覚書など)を取り交わすと共に、従業員貸付金については、約定額を毎月の賃金等から控除する旨を就業規則(賃金規程)や借用書に明示しておくのがよいでしょう。

長期休職社員の立替保険料や従業員貸付けへの対応、規定整備等でお悩みの方は、弁護士川崎仁寛(佐野総合法律事務所)までお気軽にご相談ください。

 

(覚書例)

第1条 甲と乙は、甲乙間の雇用契約が●年●月●日(以下「退職日」という。)付で終了することを相互に確認する。
第2条 甲は乙に対し、乙の退職に伴う退職金として金●万円(ただし、源泉所得税その他法令に基づき控除すべき金額が生じた場合は、法令で認められる範囲に限ってこれを控除した金額)の支払義務があることを認め、これを●月●日限り、乙の指定する下記預金口座に振り込む方法で支払う。(口座略)
第3条 乙は甲に対し、乙の休業期間中における甲の立替金(乙が負担すべき住民税、社会保険料等)にかかる立替金償還債務として金●万の支払義務があることを認め、これを●月●日限り、甲の指定する下記預金口座に振り込む方法で支払う。(口座略)
第4条 乙は、前条の立替金償還債務の弁済の便宜のため、前条の債務を、第2条に基づき甲が乙に対して有する退職金支払債務と対当額で相殺することによって支払う旨を甲に申入れ、甲はこれを承諾した。

 

(賃金規程例)

条 会社は毎月末日の賃金又は退職金支払の際、法令等に定めるもののほか、労使協定を締結のうえ、次に掲げるものを控除して支払うことができる。
(1) 社宅家賃
(2) 互助会会費
(3) 立替金又は従業員貸付制度による返済金及び利息
(4) 団体生命保険・損害保険の保険料
(5) 会社施設の利用代金
(6) 財形制度等の積立金
(7) 従業員持株会拠出金